子どもの病気・障害の体験談

こちらのページでは、わたしを含め、みなさんの「子どもの病気や障害の体験談」をご紹介しています。

現在、お子さんの病気や障害によって、ひとりで苦しんでいらっしゃる方がいましたら、ぜひ目を通してみてください。

きっと、「ひとりじゃない」と感じられるはずですよ。

子どもの病気や障害児の体験談

※こちらの体験談は動画でも見られます。動画で見たい方は、YouTube「子どもの病気・障害の体験談」のチャンネルからご覧ください。

■体験談1 結節性硬化症・ウエスト症候群・小児脳腫瘍

重度の知的&身体障害をもって生まれた息子との10年(わたし自身の体験談です)

はじめにご紹介するのは、わたし自身の話です。重度の心身障害がある息子の、病気がわかってから現在までの体験談。

このお話を公開することで、同じような苦しみを経験されて苦しんでいる方の力になればと思っています。

 

ハヤトは、わたしの初めての子どもでした。

妊娠中はとくに問題なく、出産もトラブルなく無事に産まれました。

初めての育児は大変でしたが、温かく小さな「命」に毎日感動していました。

 

異変が起きたのは、ハヤトが生後2か月を迎えようとするころでした。

メリーの下で遊んでいたハヤトが、急におかしな動きをしだしたのです。

手を横につっぱり、目はそちらをにらむように見つめ、びくんびくんと不思議な動きをするのです。

呼びかけても、一点を見つめたままで反応はありません。

わたしの心臓は今まで経験したことがないほど高鳴り、不安で手が震えていました。

 

その後、急いで救急病院にかかり、脳のCT検査をすることになりました。

CT検査が終わると、医師から説明があるとのことで、個室に通されました。

そこで見たCT画像の衝撃は、いまだに忘れることができません。

息子のCT画像には、脳の片側をほとんど埋め尽くすように、黒い影が映っていました。

私は直感的に、

「ああ、この子はもう、これから普通に生きていくことはできないんだ」

と思いました。

あまりのショックに、手は震え、口の中はカラカラで、吐き気がしました。

 

脳の黒い塊は、結節性硬化症という病気からくる、生まれつきの脳腫瘍でした。

さらに、いくつも検査を重ねた結果、ハヤトの不思議な動きは「てんかん」だとわかりました。

それも、難治性で、知的にも影響がでるという「ウエスト症候群」という難病です。

治療法のない難病のため、なすすべはありませんでした。

それでもわたしは、受け入れられない気持ちから、

「いつかよくなるかもしれない」

と、根拠なく信じていました。

 

ハヤトの病状はわたしの期待とは裏腹に、よくなることはありませんでした。

知的には最重度。目が合うことも、笑い返してくれることもありません。

ハヤトはとにかく泣いてばかりで、泣き止ますことに必死の毎日でした。

わたしはただただ、ハヤトのために毎日を必死で生きていました。

病気発覚から数年たっても、道を歩くランドセルを背負った「普通の子ども」を見るだけで涙が出ました。

未来に希望はなく、ただ、ただ、苦しい育児でした。

 

あれから10年、ハヤトもそれなりに大きくなりました。

「一生寝たきり」を覚悟していましたが、4歳には、お座りもできるようになりました。

発語はありませんが、今ではなんとなく何を考えているかもわかります。

養護学校に入ると手を離れる時間も増え、ハヤトのことで思い悩む時間も減りました。

 

いまではハヤトの障害を受け入れ、ハヤトとの生活は特別なものではなく「日常」となっています。

苦しみと大きな不安を感じていた当時の気持ちは、今も忘れることはありません。

しかし、時間とともに癒されていくものなのだと気づくことができました。

 

重度障害児との生活は不便もありますが、いろいろな方に助けられながら暮らしています。

ハヤトを通してさまざまなつながりもでき、楽しいと思える出来事も増えました。

 

ハヤトがもし健康に生まれたら……

そう思わない日はありません。

でも、今のハヤトだったからこそ気づけたことがたくさんあると思っています。

 

周りの人たちが、こんなにも優しいこと。

健康に、普通に生きられることがどれだけ幸せかということ。

 

「普通」が当たり前の生活では、今ごろ、もっとくだらないことに頭を悩ませていただろうと思います。

 

今、お子さんの病気で苦しんでいる方に伝えたいのは、がんばりすぎないでほしいということ。

 

障害児の親を、子どもの障害を受け入れられる

「選ばれた人」とする考えもありますが、ほとんどの親が、「普通の人」です。

ただ、思いがけなく、たまたま「障害児の親」になってしまっただけなのです。

 

わが子の障害や病気は、その程度に関係なく「子どもの死」に相当するショックを受けます。

そんな苦しみのなか、普通に家事や育児をこなしていくだけでも、どれだけすごいことか気づいてください。

 

わたしはこの10年を通し、自分ががんばりすぎていたことに気づきました。

自分を犠牲にする生き方では、家族の幸せにはたどり着けなかったのです。

 

どうか、罪悪感を持たずに人の手に頼ってください。

子どもの人生だけでなく、あなた自身の人生も大切にしてください。

お母さんの笑顔だけが、子どもや家族の幸せにつながっているのです。

 

この話を通して、「ひとりじゃないんだ」と思っていただける方が一人でもいれば幸いです。

苦しみを乗り越えることは簡単ではありませんが、どうか、ひとりでがんばりすぎないでくださいね。

あなたとお子さんの、幸せを祈っています。

 

2022年5月  

しょうじ あいか




■体験談2 急に歩けなくなる病気

ただの捻挫だと思ったら…3歳で急に歩けなくなった男の子

一人息子のレンの病気がわかったのは、入園式を控えた数週間前の3月のことでした。

2月頃、椅子から降りるのに失敗し、捻挫のような症状が出て、足をひきずって歩くようになってしまいました。

すぐに近所の整形外科に連れていき診てもらいましたが、結果はやはり軽い捻挫とのこと。

骨も折れていないとわかり、少しホッとして家に帰りました。



 

ところが、それからだいぶ時間が経っても、一向に治る気配がないのです。

心配になってまた同じ病院に連れていくと、治っているはずだから、精神的な問題だろうと言われました。

歩くのを怖がるのは甘えだろうから、気長に待つようにと言われて、その日の診察は終わりました。

 

しかし、それから数日経っても、レンはまだ、歩こうとしませんでした。

このとき、親の私には、彼が甘えているようにはどうしても思えなかったのです。

 

これは絶対におかしいと感じたわたしは、ネットで探し、子ども専門の整形外科へ駆け込みました。

そこで言われたのは、なんらかの病気の可能性があるということ。

大きな病院を紹介するから、そこを受診してほしいと言われました。

なんとなく、普通じゃないと感じていたものの、医師の言葉に思考は停止し、大きなショックを受けました。

 

「やっぱり、ただの捻挫じゃなかったの?」と、レンと会計を待つ待合室で不安になっている私に、ある看護師さんが声をかけてくれました。

「安心するために行くのよ、大丈夫だからね」と。

きっとわたしは、そのとき、とても怖い表情をしていたのだと思います。

その看護師さんの一言ではっとさせられ、不安に支配されていた気持ちから落ち着きを取り戻せました。

あの優しい一言に、そのときのわたしはどれほど救われたでしょう。

今でも、感謝しています。

 

大きな病院での診断の結果は、やはり何かの病気とのことでした。

詳しいことはレントゲンやエコー、手術で細胞をとらないとわからないと言われ、そのまま入院となりました。

 

椅子から降りたせいじゃなくて、病気!?

何なの?

怖い怖い怖い怖い!!!

このまま歩けないの?

どうしよう……

 

頭の中は混乱し、待合室で涙が止まりませんでした。

 

早くどんな病気か知りたくて、でも知るのも怖くて……もう、どうすればいいのかわかりませんでした。

 

その後、検査(手術)は翌日と決まりました。

その夜は自然に涙がでてきてしまい、眠るどころではありませんでした。

 

翌日、手術前、先生が病室に来られ、説明を聞きました。

そこではじめて、「可能性としては白血病、骨肉腫あたりが考えられる」と言われました。

 

レンはこれまで、元気に生まれて大きな病気もせず、風邪もほとんど引いたことがありません。

あまりにも想像とかけ離れすぎた現実に、わたしは動揺を隠せませんでした。

 

そんな動揺のなか、検査のリスクがズラズラ書かれた紙に同意のサインをしていきます。

病名がつかない、宙ぶらりんの状態。

悪い可能性しか考えられず、いちばんつらい時間でした。

 

検査の結果、病名が判明し、入院生活が始まりました。


病名は伏せますが、これまでに聞いたことのない、珍しい病気でした。

レンは腰から下をギブスで固められ、トイレにも、移動にも介助が必要な状態になってしまいました。

 

入院から、数か月。

治療によって少しずつ病状はよくなっていき、ようやく退院となりました。

ただ、歩けるまでには回復せず、退院してからも数か月、車イスに乗りました。

 

その後、レンが再び歩けるようになるまでは、1年弱の期間がかかりました。

その間、通うはずだった幼稚園は休園。わたしはレンにかかりきりの生活です。

ただ、今思うとそれも、親子でゆっくり過ごすことのできた大切な時間だったと感じます。

もちろん、当時は心の葛藤と毎日の生活に必死で、そんなことを思う余裕はありませんでした。

 

「なぜレンだけがこんな目にあうの?」

「なんでレンばっかり幼稚園に行けないの?」と、

同じ園バスに乗っていく他の子を羨んでいました。

歩けないレンを見ているだけでかわいそうで、これから先、また歩けるようになるのか不安で……当時のわたしは、人生で経験したことのない苦しみを感じていました。

 

でも、いちばん苦しかったのは、やはりレン自身だと思います。

腰から下はがっちりギブスで固められているので、暑いし蒸れるし、歩けないことでストレスもたまります。

レンは毎日、本当にがんばっていました。

ギブスで固められたレンの姿を思い出すと、今でも胸が痛みます。

 

珍しい病気だったこともあり、今でも定期検診は欠かせません。

でも、今では運動会でダンスを踊ったり、友達とかけっこをしたりと、普通の生活を送っています。

 

当時は本当に、絶望のような日々で、今でも、あのときのことを考えるだけで涙が出てきます。

でも、この経験がなければ、健康でいられることが、いちばんの、何よりの幸せであるということには、気づけなかったと強く思います。






■体験談3 全身性エリテマトーデス

快活な少女がある日、急変。微熱と痛み、だるさが続き……難病と戦い続けた15年

もう30年も前、なかなか子どもができず、やっと授かった命が“泉”でした。


生まれたときには夫婦そろって大喜び。


だからこそ、本当に大事に大事に育ててきました。


特に変わったこともなく幼稚園生活を送り、小中学校ではクラス委員等を引き受けるなどリーダーとしても活躍。

リーダーシップがあり、周りからも慕われる自慢の娘でした。


ひまわりのような笑顔がチャームポイントで、その笑顔こそが“泉らしさ”の表れでした。



 

そんな泉に異変が訪れたのは、高校進学をして間もなくの頃でした。


朝もなかなか起きられず、微熱が続き、だるくて学校に行けないというのです。


今までこのようなことがなかったため、これは何かあるのでは?と思い、かかりつけの病院へ連れていきました。


 

しかし、検査をしても特に気になるところはないとのこと。

環境が変わったことからくるストレスが原因ではないか?との診断で、その日は帰宅しました。



ところが…泉の症状は改善するどころか、悪化するばかりで、あちこちの関節が痛い、だるいと言い、食欲もなく、寝たきり状態になってしまったのです。


このままではいけないと思い、主人とも話し合い、大きな病院で診てもらうことにしました。



 

それから、いろいろな検査が始まりました。


泉にとってはつらい検査もあったようですが、だるさと痛みの方が強く、もはや、私達の知っている泉ではありませんでした。



 

一通りの検査が終わり、主治医から話があるとのことで夫婦で呼び出されました。


そこで告げられたのが、思いもしなかった難病でした。

泉は「全身性エリテマトーデス」という膠原病(こうげんびょう)の一種である病に侵されていたのです。


さらに、医師からは、耳を疑う言葉が。

細く長く生きてもらいたいのか、太く短い人生を歩ませるのか、と。

その選択は、暗に「泉の命に期限がある」ことを意味しており、あまりの急で残酷な選択に、涙が溢れました。


 

やっと出来た子が…あんなに笑顔がステキな子が…と、神様を憎みました。



でも、思い悩む時間はありません。

いち早く治療を開始しなければ命にかかわるため、医師に言われるがまま、大きな大学病院へと転院し、治療を開始しました。


 

それから8年間、泉の闘病生活は続きました。


本当に、長くてつらい闘病生活でした。

それでも、気持ちだけは前を向こうと家族全員でがんばり続けました。



 

あれから15年が経過し、泉は今、子どもたちの前に立ち、学習指導をしています。


飛び切りの笑顔と優しさで、どうやら慕われる先生となっているようです。


今でも、薬を飲みながら、病気と付き合いながらの生活。

それまでも泉は、

「病気になったことは本当に大変。病気と付き合いながら生活を送らなければならないから、人よりもハンディはある。でも、社会との関わりを持っていたい」と、あのひまわりのような笑顔で毎日職場へと出掛けていきます。



 

あのとき、諦めなくて本当によかった。


泉だからこそ、乗り越えられたのかもしれません。


今は自分が助けてもらったぶん、人にも優しくありたいのだとか……。

あの笑顔は皆を元気にしてくれます。


生きていてくれて、ありがとう。

 

【全身性エリテマトーデス】

……自分の細胞を攻撃する抗体が生じることにより、さまざまな臓器に炎症などがあらわれる病気です(自己免疫疾患)。

男女比は1:9ほどで、圧倒的に女性に多い病気です。なかでも生理が始まってから終わるまでの期間(中学生以降、20〜40歳の女性)に多くみられます。

〈症状〉

  • 発熱
  • だるい
  • すぐに疲れる
  • 食欲がない
  • 指や関節が痛む
  • 顔、耳、頭、関節裏に丸いレコードのような発疹がでることがある
  • 頬に赤い発疹(蝶のかたち)がでることがある
  • 紫外線(日光)に弱くなり、発疹や熱がでる
  • 口内炎
  • 脱毛

その他、人によってさまざまな症状が起こります。

指定難病ですが、投薬(免疫抑制剤)によるコントロールも可能で、最近では数十年この病気と付き合い続けている方も増えてきています。

■体験談4  ダウン症

4人目の子どもがダウン症でした。あれから6年、家族の記録。ダウン症の体験談

わたしが4人目になる男の子を妊娠したときの話です。

妊娠4ヶ月のとき、定期検診で、ダウン症が発覚しました。

 

その日の検診はいつもより時間が長く、先生の顔つきもなんとなく曇った様子でした。

わたしはすごく嫌な予感がして、胸がはちきれそうになっていました。

やはり、その予感は的中。

先生の話では、首のあたりに浮腫があり、ダウン症の可能性があると言われました。

言われた瞬間は、ただただ、「なんで?」という感情だけしか出ず……自然に涙がポロポロと流れていました。

 

「旦那さんとよく話し合って今後を決めるように」と、先生には言われました。

ただ、わたしも旦那も、4人目の妊娠がわかった時点で、どんな子でも産むと決めていたのです。

心配なのは、上の子たちでした。

上のお兄ちゃんお姉ちゃんたちには、まだわからないかなぁと思いながらも、生まれてくる弟の病気のことを説明をしました。

みんな真剣に話を聞いてくれて、「障害があっても産んでほしい」と言ってくれました。

そんな上の子たちの気持ちもあり、迷うことなく出産を決意しました。

 

病気のため通常分娩は困難で、出産は予定帝王切開となりました。

 

家族のサポートもあり、赤ちゃんは、元気に生まれてきてくれました。

名前は「ハル」。

かわいくて元気な男の子です。

 

生まれたときからダウン症特有の顔つき…

お兄ちゃんお姉ちゃんたちとはまったく似ていない顔…

そんな姿に、正直、戸惑いもありました。

でも、笑顔がとてもかわいい赤ちゃんでした。

4度目の出産、病気をもって生まれたとはいえ、かわいい、かわいい、わたしの子どもです。

 

ハルくんも、今では6歳。

周りの子に比べて発達の遅れはありますが、元気に育ってくれています。

上の子たちと比べると、病気やケガも多いし、体つきも華奢で手がかかります。

でも、一生懸命、毎日、毎日、とても楽しそうに生活をしてくれています。

そんな姿を見ると、なんだか安心してしまうのです。

 

生まれる前は、ダウン症の子どもをちゃんと育てられるのか、とても不安でした。

でも、生まれてからは、そんな考えは一切なくなりました。

ハルくんの笑顔が、毎日を全力で楽しむ前向きな明るさが、わたしたちを巻き込んで、みんなを明るくさせてくれるのです。

今では、家族みんなでハルくんとの生活を楽しんでいます。

お兄ちゃん、お姉ちゃんたちも、周りの目を気にせずに、大切に弟を育ててくれています。

これからも、わたしたちのペースで、ハルくんに元気をもらいながら、楽しく生活していけたらと思います。

■体験談5 口唇口蓋裂

口唇口蓋裂が遺伝…22歳で発達障害も判明

口唇口蓋裂の体験談

私の子、ケイは、「口唇口蓋裂」という病気をもって生まれました。

 

ケイの出産はとても大変で、陣痛が48時間も続きました。

生まれたあと、ケイはすぐに連れていかれ、1日目は会わせてもらえませんでした。

私自身も疲労のあまり1日動くことができず、最初にケイに会ったのは付き添ってくれていた私の母でした。

 

ケイは、左鼻と口が裂けており、また、喉も口から口蓋垂(のどちんこ)まで裂けた状態でした。

ケイを見た母は、見た目の衝撃とあまりのショックに吐いてしまったそうです。

 

私と主人がようやくケイに会えたのは、出産から2日目のことでした。

実は、私も口唇口蓋裂があり、子どもにも遺伝することは、ある程度は覚悟していたのです。

主人にも、結婚するときに話していました。

 

私は覚悟があったこともあり、ケイの姿を見てもそこまで動揺はありませんでした。

ただ、これからかなり治療が必要になるとのことで、先を思うと大変だなと感じました。

 

その後、大学病院へ通い、4回ほど顔の形成手術をしました。

病気をもって生まれたケイは手術も育児も大変で、私を育ててくれた両親もこんなに大変な思いをしてきたのかと、気持ちがよくわかりました。

 

口唇口蓋裂の治療は20才ぐらいまで続きました。

また、その他にも、16才では「身体症状症」という症状に苦しみました。

身体症状症とは、言いたいことが言えないときに頭が痛くなったり、体がだるくなったりする病気です。

 

ケイの症状は大人になっても続き、あるとき本当の病名が発覚しました。

 

22歳で大学を卒業したあと、就職ができずにアルバイトをしていたときです。

バイト先のコンビニの店長さんが「就職できないのは何かケイ自身に問題がある」と教えてくれたのです。

その言葉をきっかけに、主人が「発達障害」ではないかと気づきました。

 

23歳のときには正式に「広汎性発達障害」と診断されました。

広汎性発達障害の症状は、人とコミュニケーションを取るのが苦手とか、じっとしていられないとか、忘れやすいなど、人によってさまざまです。

ケイの場合、コミュニケーションに苦手さがあり、相手との会話でうまく受け答えができず、困っていたようです。

 

ケイは発達障害に加えて、「うつ病」とも診断されました。

うつ病は、そうした精神的な苦痛からくる二次障害だったのでしょう。

なんにせよ、病名がわかったことで少しずつ対処していけます。

現在は精神障害者手帳をもらえたこともあり、就労支援施設に通いながら、就職を目指しています。

たび重なる手術にコミュニケーションの障害と、苦労も多いですが、これからは少しでも心を楽に、ケイらしく生きていってくれたらと思っています。

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口唇口蓋裂

……唇などに割れ目が入ったまま生まれてしまう先天異常。日本では500人に1人程度にみられる病気。原因は不明な場合も多い。治療は主に割れ目を縫う手術を行う。

広汎性発達障害

……自閉症やアスペルガーなどがこれにあたる。生まれつきの脳の微細な異常によって、コミュニケーション能力の障害などが起こる病気。

■体験談6 多発性硬化症

ママ、前が見えない!

4歳で急に見えなくなった原因は、まさかの難病でした。

多発性硬化症の体験談

次女が4歳のとき、多発性硬化症という難病を発症しました。

発症当初は「体調が悪い」「よく見えない」と言い出したのですが、熱で調子が悪いだけかと思っていました。

おかしいと気づいたのは、そのあとに起こった、ある出来事がきっかけでした。

熱がありリビングで休んでいるときに、

「トイレに行きたいけど、見えなくて行けない」

と、娘が言い出したのです。

「目の前なんだから行けるでしょ」

と言うと、娘は泣きながら歩きだしました。

そして、そのまま扉にぶつかってしまったのです。

そこで初めて、大事だと気づきました。

 

あのとき、娘の言葉を信用しなかったこと、本当に申し訳なく後悔しています。

本人に詳しく聞くと、ほとんど真っ暗で何も見えないとのこと。

びっくりして、すぐに救急車を呼び、そのまま緊急入院となりました。

 

検査の結果、多発性硬化症との診断を受けました。

多発性硬化症は国の難病指定されている病気で、未だに完治方法が解明されていない難病です。

 

それから入院治療が始まり、ステロイド大量投与という方法を試しました。

ただ、一時的にはよくなるものの、完治の術がない難病のため、結局は対症療法でしかありません。

退院後もたびたび寛解と発症を繰り返して、発症するたびに入院してステロイド大量投与を行いました。

おかげで、4歳以降は入退院の繰り返しで、幼稚園の3分の1は入院という状況でした。

 

加えて、ステロイド投与後は、グッタリして動きづらい、力が入らないなどの副作用が起こります。

そのため、退院後もしばらくは自宅で療養せざるを得ませんでした。

 

どうにかして発症を抑えられないかと、遠方の有名な先生にセカンドオピニオンを受けたこともありました。

その後もかなり細かく体調管理を行っていき、そのかいがあり、成長とともに症状は落ち着いてきました。

今は薬を毎日、所定の量を飲んでいれば、発症せずに落ち着いている状況です。

 

最後に、もしも同じ病気で悩まれている方がいたら、あまり不安になりすぎないでほしいです。

治療方法が解明されていない病気ですが、他の人の話も聞くと、必ずしも日常生活が危うくなる病気とは限らないとわかりました。

諦めたり必要以上に不安になったりせずに、家族で根気よく見守っていけば、何とかなることもあります。

指定難病は国の補助もあるので、先生や自治体と相談しながら対応していくことも大切です。

治療は大変ですが、ゆっくり見守っていってください。

 

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■多発性硬化症

脳、脊髄、目の神経に障害が出る病気で、どこの神経に異変が起こるかによって症状が変わります。

例)

・視神経の障害→物が見えにくくなる

・小脳の障害→まっすぐ歩けない

その他、感覚障害や運動障害、認知や感情の障害などがあらわれることも。

発症の平均年齢は30歳前後となっており、原因は体内の免疫システムの異常が関わっているとされています。

発症後は薬物療法を中心に治療が行われます。

■体験談7 ASD 

3人目で初めての男の子。育てにくさの理由は発達障害でした。

発達障害の体験談

我が家で第三子として生まれてきた太郎くん。

はじめての男の子ということで、3人目とはいえうまく育てられるかちょっと不安でした。

しかし、私の不安をよそに、太郎はたくましくどんどん成長していきました。

変わったことといえば、生まれてすぐに内反足かもと言われたことと、ハイハイをしたかと思ったらいざり(尻ばい)をするようになったことくらいでした。

歩き始めも1歳過ぎでしたが、とびきり遅いというわけではなく、喋り始めも少し遅いかな?程度で、男女差なのかなと思っていました。

2歳ごろからイヤイヤ期なのか癇癪でかなり手こずるようになりましたが、男の子だからかと思っていました。

 

そんな太郎に発達の遅れが指摘されたのは、3歳児健診のときでした。

1人だけ、会場を走り回る息子。

どう見ても同年代の他の子が賢く見えました。

そこで、発達に遅れがあるかもしれないと言われてしまったのです。

その後、保健師さんから紹介を受け、専門機関で発達検査をすることになりました。

 

発達検査では、1歳半ほど発達の遅れがあると言われ、ASDと診断されました。

診断を受けたときは、ショックもありましたが納得した気持ちもありました。

これまで、太郎の育児にはかなり手がかかっていたため、どおりで育てにくいわけだと、親としてちょっとホッとした気持ちもあったのです。

ただ、将来のことを考えると不安もあり、やはり心配でした。

 

診断後は勧められるがままに、療育に行ったり、作業療法を受けたり、子どもへの接し方を学んだりしました。

療育を続けるうちに、発達の遅れもだいぶカバーできるようになりました。

現在は太郎も9歳となり、発達レベルも半年遅れぐらいに止まっています。

一応、小学校では支援級に在籍していますが、ほぼ交流級で過ごせている状況です。

ただ、「自分は人とちがう」「できないことが多い」といった理由で、本人の自己肯定感は徐々に下がってきているようです。

二次障害など起きないように育っていってほしいのですが、少し心配です。

まだまだ不安もありますが、どうにか自信を失わず、太郎らしく育っていってくれたらと思います。

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■ASD(自閉スペクトラム症、アスペルガー症候群)

コミュニケーションに苦手さがあり、こだわりが強く、興味が偏りやすい傾向があります。親御さんは、集団生活での困難さや育てにくさを感じる事が多く、早ければ1歳半~3歳ごろにASDの傾向を指摘されることがあります。

「得意」と「苦手」がはっきりしているので、得意を伸ばしつつ、社会で生きていくためのソーシャルスキルをバランスよく身につけていくことが大切です。

■二次障害

うつ病や自傷など、主に精神的ストレスやトラウマなどによっておこる精神的障害のことをいいます。

■体験談8 喘息

生後6か月から呼吸音に異変。2歳でようやく喘息と診断されました。

喘息と診断されたときの体験談

息子のユウキは、私たちの第一子です。

3320gで産まれ、元気いっぱいに育っていたのですが、生後半年で離乳食を始めてから、気になる症状が出始めました。

口の周りがすぐただれてしまう、風邪をひくとすぐにゼロゼロし異常なほど痰が絡む、そしてヒューヒューという呼吸音と胸の凹み…

実は、主人が小児喘息罹患者で私がアレルギー体質なため、ユウキも体質が遺伝したのでははないかと思っていました。

 

しかし、何度も小児科に通っても、「今のところ喘息とは言えませんね」、と言われるばかりでした。

口周りのただれに関しても「ステロイドを塗ればすぐよくなるので少し様子を見ましょう」と言われ続けました。

息子が赤ちゃんだった時代は、ステロイドの是非が問われていた頃。

親としてはできればステロイドを使わずにいたいという気持ちから、あちこちの小児科を受診したりもしました。

そうこうするうちに1歳半を過ぎ、口周りのただれはステロイドを塗らずとも落ち着いた状態を保てるようになってきました。

しかし、風邪をひくたび喘息のような症状は続いていました。

保育園に通っていたのもあってしょっちゅう風邪をひき、そのたびに小児科でお薬をもらうも、鼻水や咳に関するものだけでした。

 

ユウキの症状にようやく診断がついたのは、2歳になったころでした。

風邪をひいて保育園を休み、家で過ごしていた日のことです。

いつもの通りヒューヒューという呼吸音で、呼吸するたびに胸の陥没も起きていましたが、その日はなんだかいつもと違う様子でした。

なぜか泣き叫び、なかなかお昼寝しないのです。

ようやく寝てもすぐに目覚め、また泣き疲れて寝る…そんなことを数回繰り返したため、「いつもと違う」と感じて小児科を受診しました。

 

「うん、お母さん、今この子喘息発作起こしてるわ。吸入しよう」と、そこで初めて医師に「喘息」と言われました。

2回吸入して落ち着き帰宅したものの、その晩再び発作を起こし、夜間救急病院に行ったところ、そのまま入院となりました。

酸素濃度を測る数値にSpO2というものがあるのですが、その時のSpO2の値は90でした。
普通に呼吸ができていれば、100が正常値です。

発作が落ち着いた後は元気な様子でしたが、先生からは「95を下回ったら入院させてるんだよね。90だとかなり苦しいはずだよ。普段から低い値で慣れちゃってるのかな」と言われました。

 

1週間ほど入院して退院したものの、翌月もまた発作を起こして入院…。

先生と相談して検査をしたところ、犬と猫にアレルギーがあることが判明しました。

実は、わが家では息子が生まれる前から犬を飼っており、生後半年からは保護猫もお迎えしたところでした。

2匹とも若年だったため、お別れはまだまだ先の話。

事情を話すと、医師からは、「小児喘息なのは明らかなので、掃除・換気を徹底すること、寝室には犬猫を絶対に入れないこと、服に毛がついたらすぐにコロコロで取ること、それでも発作が頻発するなら生活スペースを分けること、生活スペースを分けても発作が起きる場合、動物を手放すことも視野に入れてください」と言われ、それからは必死で毎日掃除をしました。

 

毎日の掃除機がけは当たり前で、換毛期などは1日2〜3回かけることも。

息子は動物が好きで近寄っていくため、こまめに息子にコロコロをかけていました。

それでも、息子のためにしてやれることがあるのは、親として救われた気分でした。

今までのらりくらりと明言を避けられていましたが、小児喘息だとはっきり言ってもらえたことで気が楽になりました。

やっぱりそうだったんだ、と、胸のつかえが取れたような気持ちだったのを覚えています。

 

2回目の退院からは、毎日、予防薬を飲む生活です。

小学校入学時に一旦断薬しましたが、軽い発作の頻度が上がったため、また毎日飲むようになりました。

発作が起きたときは小児科で吸入を受けたり、ホクナリンテープを貼ったりしていますが、幸い入院せずにすんでいます。

動物を飼った私が悪かったんだ…と自分を責めたこともありますが、そう思っていても何もいいことはないので、でき得る対処をして前に進んでいこうと思います。

喘息とはこれからも長い付き合いになると思いますが、大人になる前に克服できたらなぁと思っています。

体験談を募集しています。

もしも体験談をご提供くださる方がいましたら、ぜひブログやSNSからご連絡ください。

コメント欄も解放していますので、そちらにご記載いただいてもかまいません。

あなたの経験が、多くの方の勇気になります。

また、誰かの役に立つことは、自分自身の幸せにつながっています。

わたしも、過去の自分自身を救う気持ちで、できることを模索していきます。ぜひ一緒に、一歩踏み出してみませんか?

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書籍や障害児向け絵本をかいています。

2022年より、重度の障害があるお子さんでも楽しめるような本を作ろうと、障害児向けの絵本作家として活動をはじめました。

よろしければ、以下のページで絵本の内容を確認してみてください。

しょうじあいかの絵本
障害児向け発達絵本|しょうじ あいか作品一覧こちらのページをご覧いただきありがとうございます。 たんぽぽ母ちゃんこと、しょうじ あいかと申します。 こちらのページでは、わたしの...

 

また、こちらの書籍は、いちばん苦しかった時期の過去のわたし自身を救うつもりで書いたもの。

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わたし自身がカウンセラー資格をとるなどして学んだ、心を軽くする方法を紹介しています。

どなたかの参考になれば幸いです。